9.6Km 2024-09-04
キョンギ道コヤン市トギャン区ソデムンギル375
北漢山城(プクハンサンソン)は百済が河南慰礼城に都邑を移した際、都を守る北方の山城として、百済時代の蓋婁王5(132)年に築城しました。この時、百済の主力軍がこの山城で高句麗の南進勢力を防ぎました。
しかし長寿王63(475)年に強大な高句麗軍が北漢山城を7日間に渡り攻撃し熾烈な攻防戦の末、城が陥落、同時に百済の都も占領され、百済の王・蓋鹵王が高句麗軍に囚われの身となりその後殺されました。
この戦により百済は公州(コンジュ)・熊津城(ウンジンソン)へと遷都し、その後百済と新羅は手を結び、高句麗の南進政策を連合して戦線を張り、防ぎました。
真興王12(553)年、新羅は百済の領土であった漢城地域(現在のソウル)を新羅の領土に編入しました。
真平王25(603)年8月には高句麗の将軍・高勝(コ・スン)が新羅が主となった北漢山城を包囲・攻撃を開始、これに対し新羅の真平王は1万人の兵力を従え援軍を送り戦いました。
その後も武烈王8(661)年5月には高句麗の将軍・悩音信(ヌェウムシン)が中国東北部・沿海州にいた民族・靺鞨(マルカル)の将軍・生偕(センヘ)とともに北漢山城を20日間に渡り包囲・攻撃し熾烈な攻防戦を繰り広げました。
この時、北漢山城の城主であった冬陀川(トンタチョン)は城内にいた住民2,800人とともに決死の決戦を敢行し、山城を守りました。
主な文化財
1) 北漢山真興王巡狩碑址(史跡)
2) 磨崖如来坐像(宝物)
3) 磨崖如来立像(宝物)
4) 太古寺円証国師塔碑(宝物)
5) 太古寺円証国師塔(宝物)
6) 蕩春台城(地方文化財)
7) 燕山君墓(史跡)
9.6Km 2024-04-24
ソウル特別市マポ区ワールドカッププクロ396 第R101号(サンアム洞、ヌリクムスクエア)
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9.6Km 2021-07-31
京畿道 楊州市 長興面 護国路 255-41
朝鮮時代の第11代の王・中宗(チュンジョン=1488~1544年・在位1506~1544年)の王妃(正室)端敬王后(タンギョンワンフ=1487~1557年)慎氏(シンシ)の陵です。
朝鮮時代第10代の王・燕山君(ヨンサングン=1476~1506年・在位:1494~1506年)治世の時代に左議政という高い官職にあり、その燕山君の次男である慎守勤(シン・スグン)の娘として生まれた端敬王后は、1499(燕山君5)年13歳という若さで晋城大君(チンソンテグン=後の中宗)と結婚、その後起きた反正(政変=中宗反正[チュンジョンパンジョン])により燕山君から王位を奪い、晋城大君が王位に就き中宗となると王妃となりました。
しかし政変の過程で政変を主導した勢力が、退位させられた燕山君の側近で端敬王后の父・慎守勤を殺害、その娘で王妃となった端敬王后は逆賊の娘ということですぐさま王妃の位を追われました。
その後、端敬王后は1557(明宗12)年にこの世を去り、一度は慎氏の墓に埋葬されましたが、1739(英祖15)年に復位され、廟号(贈名)を端敬、陵号を温陵(オンヌン)としそれ以降、端敬王后が眠る陵を温陵と呼ぶようになりました。
陵の裏手は曲垣で囲い、石羊(ソギャン)・石虎(ソコ)をそれぞれ1対、陵の左右に陵を守る形で配置、陵の手前には供え物などを置く平たい石・床石(サンソク)と墓前に建てる石灯篭・長明灯(チャンミョンドゥン)を設け、このほか陵の周囲には墓の両脇に建てられる一対の石柱・望柱石(マンチュソク)、文官の形をした文石(ムンソク)、馬の形とした馬石(マソク)なども建てられました。
動物の形の彫刻を半分に減らしているのは、妃陵として奉られた墓の先例に従ったものです。墓の下には祭祀を行う部屋(祭室)がありましたが、1970年に行われた道路拡張工事によりなくなってしまいました。
9.6Km 2019-03-20
ソウル特別市 麻浦区 ワールドカップ北路396
デジタルパビリオンは、上岩洞ヌリクムスクウェアにあるICT(Information, Communication & Technology)展示館で、未来の技術や商品、生活の様子を再現した韓国で最大規模のICT専門体験館です。ここでは、最新のICT技術で具現化された展示アイテムを見て、体験し、未来の社会の様子を想像してみることができます。これまで、想像の世界でしかありえなかった未来外のICT環境が現実となる、特別な体験ができます。