介坪韓屋村(개평한옥마을) - エリア情報 - 韓国旅行情報

介坪韓屋村(개평한옥마을)

13.5Km    48573     2024-01-11

キョンサンナム道ハミャン郡チゴク面ケピョンギル59

築100年を超える大小の韓屋約60軒が伝統的な雰囲気を漂わせながら佇んでいる村。川と川の間にあることから、間に挟まることを意味する「介」の字を使って介坪(ケピョン)という名前が付けられました。古くからソンビ(儒生)と文人が多く住むことで有名だった地域なだけに、慶尚道における典型的な上流階級の屋敷に触れることができます。介坪韓屋村が位置する池谷面に入ると真っ先に目に飛び込んでくる「咸陽一蠹故宅」は、ドラマ『ミスター・サンシャイン』や『土地』などの撮影にも使用されました。長い歴史を持つ韓屋と曲線を描きながら続く石垣の風景は心を安らげてくれます。また村の各所で押し花体験、らくがん作り、探訪路ウォーキングなど様々な体験プログラムも行われています。その他、村の中で最も古い母屋がある盧参判宅では、コチュジャン作り体験ができます。

智異山テゴジェ(正一品農園)(지리산태고재(정일품농원))

智異山テゴジェ(正一品農園)(지리산태고재(정일품농원))

13.6Km    0     2024-01-11

キョンサンナム道ハミャン郡チゴク面ケピョンギル39-2

介坪(ケピョン)韓屋村が一望できる丘の上にあり、ドラマ『ミスター・サンシャイン』など多くの映画やドラマのロケ地としても人気のスポット。瓦葺と茅葺が共存する唯一無二の伝統的な韓屋で、韓屋ステイをしながら静かな一晩を過ごすことができます。正一品、伝統室、ハクソン堂、チウン堂で構成され、茅葺は他ではなかなか見られない伝統的な形態をしています。韓定食専門店としても有名で、宿泊客に限り旬の食材を使った伝統的な韓国料理が提供されます。

鏡湖江(경호강)

鏡湖江(경호강)

13.6Km    40753     2021-06-23

慶尚南道 三清郡 三清邑 三清大路

今の「鏡湖江(キョンホガン)」は三清郡生草面於西里江亭から晋州の晋陽湖まで約32キロメートルにいたる川で国道3号線沿いに流れているのでドライブをしながら美しい景色を見ることができます。また、鏡湖江は川幅が広くて大きな岩がなく、くねくねと曲がっていて砂と小石が体積していて川の流れが速いながらも、川の流れが渦巻いている場所がほとんどないのでラフティングにぴったりの場所です。

院洞ピョルミカルビチム(원동별미갈비찜)

院洞ピョルミカルビチム(원동별미갈비찜)

16.4Km    2595     2020-05-08

慶尚南道 居昌郡 居昌邑 西辺院洞キル14
+82-55-942-1850

居昌の院洞村は「牛カルビスープ(ソガルビタン)」で有名です。この村の数ある食堂の中で「牛カルビの蒸し煮(ソガルビチム)」でもっとも有名なのが「院洞(ウォンドン)ピョルミカルビチム」です。
直接栽培した食材や良質の韓牛、そして二代にわたり受け継がれる秘伝の薬味など、味を引き立てる要素が整っており、1996年には韓国文化伝統保存会から伝統文化名人の称号を与えられました。

黄渓滝(황계폭포)

黄渓滝(황계폭포)

16.5Km    28899     2024-01-08

キョンサンナム道ハプチョン郡ヨンジュ面ファンギェ2ギル30

黄渓滝(ファンギェポッポ)は周りの美しい景色に溶け込む名所としてクジャン山渓流が風光明媚で、周辺の岩壁が屏風のように取り囲んでいます。絶景をほこり、高さ約20メートルの崖から流れ落ちる轟音は雷鳴にも似ています。水量の違いは多少あっても涸れることはなく、夏は暑さを忘れさせてくれます。1段目の滝壺は、絹糸1かせを全部垂らしても底に届かないほど深いため龍が住んでいたという言い伝えがあります。昔のソンビ(儒生)たちはそのあまりの美しさに見とれ、かの有名な中国の廬山の滝にたとえたといいます。

ソンリム山荘(송림산장)

ソンリム山荘(송림산장)

17.1Km    3400     2021-08-02

慶尚南道 山清郡 山清邑 山水路316-6

「韓方薬草祭」が開かれるほど薬草が有名な慶尚南道の山清では、韓方鴨や韓方の水炊きなどの味も格別です。山清の26種類の代表的な薬材と、それらの薬材と相性のいい鴨肉と鶏肉の料理は、滋養強壮に効果があります。これに加え、薬草の漬物、食後に出てくる薬草茶・韓方茶、8年物の竹筒酒(テトンジュ)も楽しめます。

咸陽大鳳山休養バレー(함양대봉산휴양밸리)

咸陽大鳳山休養バレー(함양대봉산휴양밸리)

18.1Km    0     2024-02-21

キョンサンナム道ハミャン郡ピョンゴク面ピョンゴクチゴクロ331

咸陽大鳳山(ハミャン・テボンサン)休養バレーは、咸陽大鳳山の麓にある総合休養観光団地です。自然の中でスリルを満喫することができる山岳モノレールとジップラインがあり、キャンプ施設、宿泊施設、そして森林浴場も備わっていて、アクティビティと休息を一箇所で楽しむことができます。ジップラインは標高1,200メートルの高さにあり、全長3.27キロメートルに達します。

東医宝鑑村(동의보감촌)

東医宝鑑村(동의보감촌)

18.6Km    9918     2018-10-18

慶尚南道 山清郡 今西面 東医宝鑑路555番キル45-6
+82-55-970-7216

韓方ヒーリング、ワンストップで楽しむ!

2007年に開館した韓国初の韓医学専門博物館を中心に韓方テーマ公園、山清薬草館、韓方気体験場、韓方自然休養林、韓医院など韓方ヒーリングを経験できるあらゆる施設が一堂に会しています。東医宝監を著した許浚(ホ・ジュン)先生がいなくても、許浚先生が構築した韓医学の知識をさまざまな角度から接することができるので、慢性的にストレスに悩んでいる方なら今すぐここを訪れてみることをおすすめします。


山清 伝・仇衡王陵(산청 전 구형왕릉)

山清 伝・仇衡王陵(산청 전 구형왕릉)

18.8Km    17192     2020-07-13

慶尚南道 山清郡 今西面 仇衡王陵路
+82-55-970-6411

伝・仇衡王陵(チョン・クヒョンワンヌン=仇衡王陵と伝えられている王陵という意)は伽倻(カヤ)の第10代の王・ 仇衡王(クヒョンワン)の墓として後世に伝えられている積石塚で、仇衡王は仇亥(クヘ)あるいは譲王(ヤンワン)とも呼ばれています。伽倻の王・仇衡王はその後の新羅の将軍・金庾信(キム・ユシン)の曽祖父にあたる人物です。521年に伽耶国の王に即位し、532年新羅の法興王(ポプンワン)に領土を明け渡すまで11年間、王の座に在位しました。

この墓を巡り、石塔であるという説と、王陵であるという説の二つの説があります。この石積塚を塔と見る見解はこれと似たものが安東(アンドン)と義城(ウィソン)地方に分布していることを根拠にしています。
一方、王陵であるという根拠は韓国全土を網羅した地理誌「東国輿地勝覧」の山陰県山川條のところに「県の40里(注:韓国の1里は約400m)の山中に石で積まれた九龍があるが、四面にすべて段々となっておりが、世俗には王陵と伝えられている」という記録があります。

この墓に王名を付けた記録は朝鮮時代の文人・洪儀泳(ホン・ウィヨン=1750~1815年)の「王山尋陵記」(ワンサンシムヌンギ)に初めて登場しますが、墓の西側に王山寺(ワンサンサ)という寺があり、寺に伝えられている「王山寺記」に仇衡王陵という記録があったといいます。

一般の墓とは違い、傾斜のある丘の中腹にすべてで高さ7.15mの階段式の石段をなしています。前から見ると7段になった石積みで、後ろからは急な傾斜をそのまま利用して作られているため、平地に作られたピラミッド型の階段状の石積みとは異なった形となっています。墓の最上部は楕円形に石が積まれています。

 積石塚の真正面には「駕洛国譲王陵(カラックク・ヤンワンヌン)」と書かれた碑石があり、そのそばには石造物がいくつかありますが、これは近年に建てられたもので王陵の時代のものとは異なります。

朝鮮時代末期の正祖17(1793)年には、王山寺で長年伝承されてきた木箱から発見された仇衡王と王妃の肖像画、衣、弓などを収蔵するため、「徳譲殿(トギャンジョン)」という殿閣を建立、今日でも春や秋になると祭祀を執り行っています。




[詳細解説]
仇衡王陵と伝えられているこの積石塚・伝仇衡王陵は、駕洛編年記(カラクピョンニョンギ)によれば、新羅時代の法興王19(532)年、仇衡王が方丈山(パンジャンサン)の太王宮(テワングン)で亡くなり譲王(ヤンワン)という諡号(贈名)を追号しそこに埋葬されたということから、駕洛国第10代譲王の陵と言われています。譲王は新羅の王との戦いに敗れ、戦死したとも伝えられています。

この墓は一般の墳墓とは異なり、石積みの階段状になった方形をしており、西から東へと下る斜面に雑石で築造しています。
正面は7段となっていますが、後面は斜面に作られていることもあり前面に比べ傾斜があり段数も少なくなっています。石礫は正面からみても直線に積まれてはおらず、やや曲がった形で積まれ、また四隅も明確な形で作られておらず、最も上の部分は土を盛り上げて作る封墳のように楕円の半球型の形に石が積まれています。
前面中央から一番高いところまでの高さは7.15mほどあり、何の目的で作られたかは定かではありませんが第4段の東側に幅40cm、高さ40cm、深さ68cmの小さな仏像や位牌などを安置する龕室(カムシル)が設けられています。

この石積塚の周りには同じような雑石で高さ1mほどの塀が築かれており、また石積塚の真正面には「駕洛国譲王陵」と刻まれた石碑が建っています。さらに、その石碑の前には供え物などを置く平たい床石や石灯篭の一種・長明灯(チャンミョンドゥン)もあります。
その左右には文人石・武人石・石獣がそれぞれ一対ずつありますが、これら石造物は最近建てられたものであり石積塚とは年代的に大きな差がある石造物です。

この石積塚をめぐっては従来石塔という説と王陵という二つの説が提起されてきました。まず、これを石塔とする説はこのような形態の石塔が安東や義城地方に分布していることを根拠に挙げています。
一方、王陵とする説は「東国輿地勝覧」の山陰県山川條に「王山(ワンサン)」についての記述があり、その 脚注に「県の40里の山中に石で積んだ九龍があるが、四方すべての面が段々となっており、世間には王陵と伝えられている」という記録があります。
この墓を仇衡王陵という名称で初めて言及したのは洪儀泳(ホン・ウィヨン=1750~1815年)の ≪王山尋陵記(ワンサンシムヌンギ)≫でのことですが、近くにある王山寺(ワンサンサ)に伝えられている≪山寺記巻(シンサギグォン)≫に仇衡王陵と書かれていたといいます。
他の史料≪山清県遺誌≫によれば、正祖22(1798年)初めて王陵について言及したと記録している書物は、洪儀泳の ≪王山尋陵記≫で、これを根拠に王陵と判断したと思われます。伝えられるところでは、およそ200年前に村の人々が山に登り、祈雨祭(雨乞い)を行ったところ雨が降り、下山した王山寺で雨宿りをしていると、本堂の梁の上に正体不明の大きな木箱を見つけ、これを梁から下ろして中を見てみると、その中から仇衡王やその王妃の肖像画や服、弓、刀などの遺物とともに名僧・担渶(タンヨン)が記した王山寺記を発見、これを手掛かりに王陵を探し出すことができたといいます。
この時発見されたこれら遺物を所蔵するために朝鮮時代後期の正祖17(1793)年に徳譲殿を建て、それ以降毎年春と秋に追慕祭を執り行っています。

上林公園(상림공원)

18.8Km    53689     2021-11-05

慶尚南道 咸陽郡 咸陽邑 ピルボンサンキル 49

約1200年の歴史を持つ「上林(サンリム)公園」は川岸と河川敷を保護するために作られた人工林で、天然記念物に指定されています。上林公園は咸陽を代表する見どころで、「故郷を忘れても上林は忘れない」という言葉があるほどです。