ミジンそば村(미진메밀마을) - エリア情報 - 韓国旅行情報

ミジンそば村(미진메밀마을)

5.9 Km    4435     2024-02-23

キョンギ道ヤンピョン郡ソジョン面プカンガンロ783-1

ミジンそば村(メミルマウル)は、そばを主材とする多様なメニューがあるそば料理専門店です。韓国産そばを使って料理を作ります。看板メニューとしては水混ぜそばと混ぜそばがあります。水混ぜそばを食べるときは、そば餃子やそば粉の薄皮巻きを添えるとさらに美味しく食べることができます。

[事後免税店] ハイマート・ピョンネ(坪内)店(하이마트 평내점)

6.0 Km    0     2024-04-29

キョンギ道ナミャンジュ市キョンチュンロ1350ボンギル1

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[事後免税店] Olive Young・ナミャンジュピョンネ(南楊州坪内)店(올리브영 남양주평내점)

6.4 Km    0     2024-06-27

キョンギ道ナミャンジュ市キョンチュンロ1309

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ナチュラルガーデン(내추럴가든529)

6.5 Km    0     2024-02-23

キョンギ道ヤンピョン郡チピョン面ネスイプギル108-8

ナチュラルガーデンは、17年間育ててきた個人庭園を2017年にオープンした森の中のカフェです。入場券を購入する必要があり、入場券はカフェのドリンク交換券として利用できます。エスプレッソ、アールグレイ、五味子エードなどのドリンクと手作りのパンもあります。ドリンクを手にして小さい川が流れる美しい庭園を観賞しながら知人たちと話を交わしてください。

大成里国民観光地(대성리 국민관광지)

大成里国民観光地(대성리 국민관광지)

7.1 Km    36243     2024-02-06

キョンギ道カピョン郡チョンピョン面テソン里601-1

大成里(テソンリ)国民観光地は、北漢江(プカンガン)に位置している遊園地です。散策路、ピクニックサイト、キャンプ場、森の道があります。北漢江と大成里国民観光地の間には大成里北漢江桜道もあります。ここは毎年4月に桜が満開となり、お花見スポットとして有名です。周辺には水上レジャー施設があるのでたっぷり楽しめます。

Mekongカフェ(메콩 카페)

Mekongカフェ(메콩 카페)

8.6 Km    0     2024-02-16

キョンギ道カピョン郡チョンピョン面プッカンガンロ1983-2 Mekongカフェ
031-584-0777

Mekong(メコン)カフェは、北漢江(プッカンガン)のリバービューが楽しめる東南アジア風のカフェです。本館、ドクターフィッシュが体験できる座敷タイプの別館、屋外には小屋があります。小屋は、北漢江を近くで鑑賞できるプライベートバンガローになっていて、人気を集めています。エスプレッソウィンナーコーヒーとミルクウィンナーコーヒーがあり、塩パンやMekongブランチセットなどのメニューを揃えています。清平(チョンピョン)駅からは、車で約10分でアクセスできます。

水鐘寺(수종사)

水鐘寺(수종사)

8.8 Km    42820     2023-06-19

キョンギ道ナミャンジュ市チョアン面プクハンガンロ433ボンギル186
+82-31-576-8411

雲吉山の素晴らしい風景を感じされるところ、水鐘寺
水鐘寺(スジョンサ)は京畿道(キョンギド)南楊州市(ナミャンジュシ)鳥安面(チョアンミョン)松村里(ソンチョルリ)の雲吉山(ウンギルサン)山頂近くにある奉先寺(ポンソンサ)の末寺です。
広州山脈(クァンジュサンメク)が南西に走り、縁起のよい気運が漂う雲吉山は雄壮さはないものの奥深さがある名山です。
特に水鐘寺から眺める風景は素晴らしく、さまざまな山の頂が聳え、漢江(ハンガン)本流へと流れていくすこし手前の北漢江(プッカンガン)の水の流れがまた素晴らしい風景となっているところです。
水鐘寺の創建の年代は定かではありませんが、19世紀末に各地方の寺院の沿革などをまとめ記録した書・梵宇攷 (ポンウゴ)によると、世祖がこの寺を行幸した際、地面を掘り泉を探しあて、そして鐘も発見したということから水鐘寺という名称になったという言い伝えがあります(後述の通り、寺の命名には諸説あります)。
また、1939年、寺にある石造浮屠を重修する際、1439(世宗21)年に建立された浮屠と確認されたことから、水鐘寺は朝鮮時代初期に創建されたものと推定されています。

水鐘寺は長い歳月を経て重創を繰り返しましたが、時の経過とともに本堂に当たる大雄殿や僧侶が住む寮舎(ヨサ)チェが朽ち果て、仏像もまた惨憺なものとなってしまいました。
1890(高宗27)年になり、楓溪慧一(プンゲヘイル)和尚が朝鮮王朝第26代の王・高宗(コジョン)より内幣金8000両を賜り3月27日より重創を開始、6月28日に修復を終えました。
翌年3月にはさらに4000両を下賜され、仏像4尊と幀画3軸を新たに奉安し、大法殿・羅漢殿・御香閣、そして山王閣に韓国伝統の木造建築にさまざまな彩色・模様をつける丹青(タンチョン)を施しました。
1939年には住持(住職)であった日照泰旭が大雄殿・禅楼を、1940年には霊山殿・独聖閣・山神閣・御影閣などを重建しましたが、韓国戦争(1950~53年・休戦)の時にすべて焼失してしまいました。
1975年には僧侶・慧光によって大雄宝殿を復元し、寺の規模を拡大、1999年住持の東山が選仏場や三鼎軒を重創し、今日に至っています。
1972年には八角五層石塔(第22号)が、1995年には浮屠(第157号)がそれぞれ京畿道有形文化財に指定され保存されています。


水鐘寺の伝説
水鐘寺にはこんな伝説がいまに伝えられています。
朝鮮時代の王・世祖が金剛山を遊覧し帰る道すがら、龍船に乗って両水湾(現在の漢江にある両水里(ヤンスリ))で一晩を過ごしていると、真夜中に忽然とどこからか、かすかな鐘の音が聞こえてきました。
次の日、人を遣わしその音がどこから聞こえてきたのか探って見ると、そこには岩窟があり、中には十八羅漢像がありました。
鐘の音は岩窟に水滴が落ちて響く音で、清らかで澄んだ音だったといいます。
世祖は何かふしぎな因縁を感じ、その場所に土台を築き、建築を匠らを呼び寺を創建しました。そして田畑を下賜し僧侶を住まわせ、この寺を水鐘寺と命名したといいます。


朝鮮時代初期の石塔の貴重な資料、水鐘寺五層石塔
1459(世祖5)年に建立された朝鮮時代初期の代表的な石塔です。
五層石塔ですが、あまり高くなく優雅でこじんまりとしていながらも華麗な塔身の姿が全体的に気品がある石塔です。
石塔の八角址台石の各面には眼象(象の目)が写実的に刻まれており、基壇部の各面には単辦、覆仰蓮、そして眼象が華麗な姿で彫刻されています。
五層石塔の塔身は上層へ行くにつれ少しずつ小さくなっていき、塔身の先端を保護する屋蓋石の落水面が著しく垂れ下がっており、殿閣と対称をなしています。
屋蓋石の下の面は平らになっており、水平となっていることで石塔の中心の柱となっている屋身がこれを支えています。屋蓋石の支えは3段に分かれており、屋蓋石の角のそれぞれ端には鐃鈴(ヨリョン)がぶら下がっていました。これは朝鮮時代初期、京畿道一帯で流行した形式の石塔として貴重な研究資料となっています。

水鐘寺は雲吉山の中でも最も眺めがよい場所にあり、寺からは両水大橋(ヤンステギョ)をはじめ両水里や北漢江一帯がよく見えます。
水鐘寺をめぐる逸話にはこのような話があります。
朝鮮時代の王・世祖が金剛山を訪ね、その帰途、船で戻る道中で二水頭(イスドゥ=現在の両水里)で泊まることになりました。夜景を楽しんでいると、突然鐘の音が聞こえました。不思議に思った世祖は、次の日、村人を呼び、鐘の音はどこから聞こえるのかと尋ねると村人は「近所に鐘はなく、鐘の音が鳴るところといえば雲吉山の中の古い寺の跡が一箇所あるだけ」と答えました。
世祖はすぐに調べるよう命を発し、探してみると寺跡の岩窟の中に十八羅漢像が列座し、岩の隙間から水滴が垂れ、鐘の音のような音がしていることを突き止めました。これに感動した世祖は寺を建立し、その寺に水鐘寺と名付けたといいます。
また、その発見した羅漢像を奉安するために山の中腹に建立した塔が水鐘寺五層石塔と伝えられています。

しかし、その後およそ400年の間に水鐘寺は次第に衰退し、創建当時の面影はなくなってしまいます。
ようやく朝鮮時代末期になり復興の気運が高まり、1890(高宗27)年、王より楓溪慧一和尚に対して重建するよう命が下り、下賜金8000両が与えられ、翌年さらに4000両がさらに下賜され、同時に金帛紅絲を仏前に供えることとなりました。
1962年に現在の場所に移転した際、各塔身から仏像、菩薩像など18点の遺物が発見され、現在、国立中央博物館に所蔵されています。

南楊州 洪陵(高宗と明成皇后)と裕陵(純宗と純明・純貞皇后)[ユネスコ世界遺産(文化遺産)](남양주 홍릉(고종과 명성황후)과 유릉(순종과 순명,순정 황후)[유네스코 세계문화유산])

南楊州 洪陵(高宗と明成皇后)と裕陵(純宗と純明・純貞皇后)[ユネスコ世界遺産(文化遺産)](남양주 홍릉(고종과 명성황후)과 유릉(순종과 순명,순정 황후)[유네스코 세계문화유산])

9.1 Km    16320     2021-07-31

京畿道 南楊州市 洪裕陵路352-1

洪裕陵は洪陵と裕陵を合わせた言葉です。丘を間にはさみ、同じ圏域にあります。

洪陵
洪陵は大韓帝国初代皇帝・高宗(コジョン)と明成皇后(ミョンソンファンフ)閔氏の陵です。元々洪陵は明成皇后の陵としてソウルの清涼里(チョンニャンニ)にありましたが、高宗の死後に今の場所に移され、一緒に祀られています。高宗は興宣大院君・李昰應の次男で、12歳の若さで王位につきました。高宗は1897年、大韓帝国樹立を宣布し皇帝の位につきましたが、日本の圧力が増す中、乙巳勒約を結んで外交権を日本に奪われ、1919年に徳寿宮にて67歳で崩御しました。明成皇后は驪城府院君・閔致禄の娘で、1866年に王妃となりました。1873年、高宗の親政(王が直接国の政治を手がけること)をきっかけに政治的実権を掌握後、親露政策に不満を抱く日本人刺客に殺害されました。

裕陵
裕陵は最後の皇帝である純宗と、その妃である純明孝皇后閔氏、継妃・純貞孝皇后尹氏を合葬した唯一の「同封三室」の陵です。純宗は高宗と明成皇后の2番目の息子で、朝鮮最後の王です。民族主権を守護しようとした悲劇的な歴史の王でした。純明孝皇后は純宗が即位する前、王の後継ぎの正妻として始めてオリニ大公園付近の龍馬山の麓に埋葬されましたが、純宗の死後、陵を移して合葬されました。純貞孝皇后は12歳の純宗の后となり、1910年、日本帝国が国権を奪おうとした際、玉璽(国家文書に使われた玉で作った王の印鑑)をスカートの中に隠したというエピソードの人物です。その後、国権は奪われ、大韓帝国は滅びてしまいます。死ぬ瞬間まで温和な性質と気品を忘れなかった純貞孝皇后は大韓帝国の最後の皇后です。

洪陵と裕陵は従来の朝鮮王陵と異なる点があります。それは朝鮮の国名を大韓帝国にかえた際、王を「皇帝」と称したほど、皇帝陵の様式に従い明・太祖の孝陵を見習って作ったことです。洪裕陵には他の王陵では見られなかったキリンやゾウ、獅子、ヘテなど多様な動物形態の石物があります。洪陵の石物は伝統的な方法で作られており、裕陵の石物は洪陵のそれよりも事実的かつ優れた手法が見られます。

アラクノピア生態樹木園・胄弼クモ博物館(아라크노피아 생태수목원·주필거미박물관)

アラクノピア生態樹木園・胄弼クモ博物館(아라크노피아 생태수목원·주필거미박물관)

9.5 Km    13700     2022-06-20

京畿道 南楊州市 鳥安面 雲吉山路316

金胄弼(キム・ジュピル)博士は世界中を回ってクモを採集し、研究を通じて数多くの文献・標本などを収集しました。これを展示してクモの生態などを広く伝えるため1985年9月1日に韓国クモ研究所を設立し、特に未来の主役である子どもたちに基礎科学の大切さを教え、生物と実際にふれあう機会などを提供しています。

南楊州 思陵(定順王后)[ユネスコ世界遺産(文化遺産)](남양주 사릉(정순왕후) [유네스코 세계문화유산])

南楊州 思陵(定順王后)[ユネスコ世界遺産(文化遺産)](남양주 사릉(정순왕후) [유네스코 세계문화유산])

10.0 Km    7947     2023-06-19

キョンギ道ナミャンジュ市チンゴン邑サルンロ180

思陵(サルン)は朝鮮王朝時代最も悲運の女性、端宗の妃・定順王后(1440-1521)宋氏の陵です。 定順王后は1453年王妃に揀擇(多くの候補者を宮殿の中に集め、王、王子、王女の配偶者を選ぶ行事で選ばれること)され、翌年王妃になりました。 端宗が首陽大君(世宗)に王位を奪われ寧越に流されると定順王后も格下げになりました。その後端宗が亡くなると東大門の外にわら葺の家を建て一生夫を思いながら暮らしました。よって墓の名前も「思陵」になったとされています。

思陵は王妃の陵で、他の陵に比べこぢんまりしていて簡素です。陵の規模も非常に小さく、屛風石(陵を保護するために陵の上の周囲を屏風のように立てた四角形の平たくて大きい石)を置かずに文人石(陵の前にたてる文官の形に造った石)や石馬(陵の前に石でつくった馬)のみがあります。