9.2Km 0 2024-06-27
キョンギ道ナミャンジュ市ピョルネジュンアンロ84 3904棟22-1~2号
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9.4Km 0 2024-04-26
キョンギ道ナミャンジュ市ピョルネジュンアンロ24、1階(ピョルネ洞、イレタワー)
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9.4Km 8212 2020-05-14
ソウル特別市 蘆原区 徳陵路129ガキル242
龍窟庵(ヨングラム)は水落山にある寺の中でもっとも山頂に近いところに位置し、ここには天然の洞窟があります。この洞窟が龍窟庵の始まりで、現在は釈迦牟尼仏と十六羅漢が奉安されています。100年ほど前、支配体制から排斥された修行者たちは深い山に隠れるしかなく人気のないこの洞窟は隠れ家と修行場所としてぴったりでした。こうして龍窟庵は世間に名前を知られるようになっていきました。興宣大院君の摂政から追い出された明成皇后が逃げてきてここで過ごしながら祈祷していたこともあります。その縁で龍窟庵は大々的な改築をし、寺院らしい姿に変わりました。
9.5Km 27667 2024-02-27
キョンギ道ナミャンジュ市スドン面ピリョンロ1626
031-592-8801
ジンギスカンイェッコヒャンでは、モンゴル式ラム肉料理と韓国料理が味わえます。ラム肉のゆで肉、カルビ、餃子、素麺、ホットクがセットになったモンゴル式定食が看板メニューで、単品での注文も可能です。ラム肉が食べられない人のために、山菜ビビンバ、海鮮入りねぎのチヂミなどの韓国料理もあります。カフェも併設されています。
9.5Km 46652 2020-07-08
京畿道 南楊州市 水洞面 飛龍路 1635
京畿道(キョンギド)南楊州市(ナミャンジュシ)水洞面(スドンミョン)の松川里(ソンチョンリ)、雲水里(ウンスリ)、立石里(イプソクリ)、水山里(スサンリ)、秘琴里(ピグムリ)一帯は、その名の通り一枚の絵画のような美しい自然が広がる所です。随所に涼しい渓谷が流れていることから、「ムルゴルアン」という名称でも広く知られています。鋳錦山(チュグムサン)と霜山(別名・ソリサン)、祝霊山に囲まれた水洞国民観光地は、うっそうとした森ときれいな渓谷が調和をなし、夏の避暑地として人気を集めています。
特に管理所から上方に約1.5キロメートル上がった区間は岩が多く森が生い茂っていることから夏になると多くの人々が涼を求めてやって来ます。渓谷のあちらこちらに公園などがあるほか郷土料理店や民宿も並び、観光客で賑わいを見せています。ここは1983年に整備され、豊富な山菜や数十種の木の実をはじめ、キノコ、ツルニンジン、ゼンマイ、桔梗、タラの芽などの土産品や、特産品の蜂蜜、栗、松の実などが有名です。
9.6Km 5078 2023-02-06
キョンギ道ナミャンジュ市スドン面ピリョンロ1635
京畿道(キョンギド)南楊州市(ナミャンジュシ)の天摩山(チョンマサン)のふもとにあるモンゴル文化村は、1998年に南楊州市とモンゴルのウランバートル市が締結した友好協力条約によって作られたところで、モンゴルの伝統文化や芸術に触れることができます。
展示館にはモンゴルの伝統衣装や楽器、生活用品など、モンゴルの歴史や文化が分かる800点余りの様々な品が展示されています。
9.6Km 47336 2021-04-05
ソウル特別市 蘆原区 徳陵路130カキル22
+82-2-2116-3943
「仏岩山(プラムサン)」は、ソウル市蘆原区上溪洞、中溪洞と南楊州市別内面の狭間に聳える高さ508メートルの穏やかな岩山で、全体面積は約355,396平方メートル(1,620,000坪)です。1977年に都市自然公園に指定されました。山の形が松蘿をかぶった釈迦の姿に似ていることから仏岩山と命名され、天宝山や筆岩山とも呼ばれています。稜線が緩やかに延びており、周りの景色を眺めながら気軽に山登りできる他、夜に頂上から眺めるソウルの夜景は絶景と謳われています。
9.9Km 16320 2021-07-31
京畿道 南楊州市 洪裕陵路352-1
洪裕陵は洪陵と裕陵を合わせた言葉です。丘を間にはさみ、同じ圏域にあります。
洪陵
洪陵は大韓帝国初代皇帝・高宗(コジョン)と明成皇后(ミョンソンファンフ)閔氏の陵です。元々洪陵は明成皇后の陵としてソウルの清涼里(チョンニャンニ)にありましたが、高宗の死後に今の場所に移され、一緒に祀られています。高宗は興宣大院君・李昰應の次男で、12歳の若さで王位につきました。高宗は1897年、大韓帝国樹立を宣布し皇帝の位につきましたが、日本の圧力が増す中、乙巳勒約を結んで外交権を日本に奪われ、1919年に徳寿宮にて67歳で崩御しました。明成皇后は驪城府院君・閔致禄の娘で、1866年に王妃となりました。1873年、高宗の親政(王が直接国の政治を手がけること)をきっかけに政治的実権を掌握後、親露政策に不満を抱く日本人刺客に殺害されました。
裕陵
裕陵は最後の皇帝である純宗と、その妃である純明孝皇后閔氏、継妃・純貞孝皇后尹氏を合葬した唯一の「同封三室」の陵です。純宗は高宗と明成皇后の2番目の息子で、朝鮮最後の王です。民族主権を守護しようとした悲劇的な歴史の王でした。純明孝皇后は純宗が即位する前、王の後継ぎの正妻として始めてオリニ大公園付近の龍馬山の麓に埋葬されましたが、純宗の死後、陵を移して合葬されました。純貞孝皇后は12歳の純宗の后となり、1910年、日本帝国が国権を奪おうとした際、玉璽(国家文書に使われた玉で作った王の印鑑)をスカートの中に隠したというエピソードの人物です。その後、国権は奪われ、大韓帝国は滅びてしまいます。死ぬ瞬間まで温和な性質と気品を忘れなかった純貞孝皇后は大韓帝国の最後の皇后です。
洪陵と裕陵は従来の朝鮮王陵と異なる点があります。それは朝鮮の国名を大韓帝国にかえた際、王を「皇帝」と称したほど、皇帝陵の様式に従い明・太祖の孝陵を見習って作ったことです。洪裕陵には他の王陵では見られなかったキリンやゾウ、獅子、ヘテなど多様な動物形態の石物があります。洪陵の石物は伝統的な方法で作られており、裕陵の石物は洪陵のそれよりも事実的かつ優れた手法が見られます。