国立扶余博物館(국립부여박물관) - エリア情報 - 韓国旅行情報

国立扶余博物館(국립부여박물관)

国立扶余博物館(국립부여박물관)

15.5 Km    15415     2023-12-26

チュンチョンナム道プヨ郡プヨ邑クムソンロ5

扶余(プヨ)市内の南東錦城山の麓にある「国立扶余博物館」は1929年財団法人「扶余古跡保存会」が発足し、百済の文化財や遺物を集めて扶蘇山の南に位置した朝鮮時代の官衙客舎に展示するようになったものが、そのはじまりです。1939年からは「朝鮮総督府博物館扶余分館」、その後「扶余博物館」と名称が変わり、1970年には扶蘇山南側の麓に新しい博物館を建て、扶余を含めた百済圏に散らばった百済文化遺物を中心に展示しました。1993年8月6日に現在の場所に移転・オープンし、面積61,429平方メートル、4つの展示室と野外遺物展示場に約1,000点の遺物を展示しています。
韓国の伝統様式を導入した八角形の建物の中庭を中心にし、常設展示室である先史室、歴史室、仏教美術室と野外展示室を配置しました。先史室には扶余地域を中心に忠清南道地域で出土した青銅器時代と鉄器時代の遺物、歴史室には泗沘時代の百済の遺物と三国時代の遺物、仏教美術室には泗沘時代の百済の仏教美術品、野外展示室には仏像や石塔などの彫刻作品が展示されています。

遯岩書院[ユネスコ世界遺産(文化遺産)](돈암서원 [유네스코 세계문화유산])

15.7 Km    38750     2021-07-30

忠清南道 論山市 連山面 林3キル 26-14

* 金長生を祀る書院、遯岩書院

遯岩書院(トナムソウォン)は、朝鮮時代の仁祖12(1634)年、現在建てられている場所から1.5キロメートル離れた里山に建てられました。
遯岩書院は 顕宗(ヒョンジョン)元(1660)年、王から扁額を下賜を受け、賜額書院となりました。しかし、立地している場所が低地にあり洪水になると水が庭まであふれてくることから、高宗17(1880)年、現在の場所である林里(イムニ)74番地(書院村)へ移築されました。
また遯岩書院は 高宗3(1865)年に行われた書院撤廃令の対象からも外れるほどの書院でした。3間の幅がある高柱の大門・入徳門(イットッムン)を入ると、正面に養性堂(ヤンソンダン)、左手に凝道堂(ウンドダン)があり、養性堂の裏手には祠宇(祠堂)があり、この他敷地内には蔵板閣(チャンパンガク)、静会堂(チョンフェダン)、山仰楼(サンアンヌ)の建物があります。
遯岩書院では地元の儒林らが毎年陰暦2月と8月中旬ごろの中丁の日に祭祀を執り行っています。
祠堂の建物の前面には1間分の広さを確保し建物の内部に食い込むような形で作られた玄関口のようなスペース・前退(チョンテ)があり、床材には瓦のように焼いた瓦板が使われています。祠堂の建物内部は井桁に組んだ板の間となっています。正面の柱の間には四枚で構成された引き戸がつけられており、建物両脇と後方の壁は漆喰壁となっています。
軒の端の重さを支えるため柱の上部に取り付ける木組・栱包(コンポ)は、二翼工外出目と呼ばれる木組の工法と同様の手法で組まれています。柱と梁が交わる隅の部分に取り付ける梁奉(ヤンボン)は伝統的な姿となっており、 柱の上部を左右につなげる木材・昌坊(チャンバン)の上に設けられた華盤型の草刻盤は柱の間に1つずつあります。
屋根の架構は退高柱を立て、退梁と大梁を掛けわたす木材は海老のように曲がったものを使います。大梁の上に一種の包台工を取り付け、退高柱とともに宗梁を支え、そのさらに上の宗梁に波蓮台工を置き、建物最上部にある上梁を支えます。
祠宇(サウ=祠堂)には朝鮮時代中期の思想家・金長生(キム・チャンソン)を主享とし同時期の文臣3人、金集(キム・チプ)、宋浚吉(ソン・ジュンギル)、宋時烈(ソン・シヨル) 先生の合わせて4人のみを文廟に祀る他ではあまり見受けられない昔の賢人を祀る先正書院です。
遯岩書院の碑文によれば、部屋、板の間、縁側、 行廊がある凝道堂があったといい、凝道堂の左手に居敬斎(コギョンジェ)、右手に精斎(チョンイジェ)がありましたが、建設当時の原型のままで残っておらず、当時どのような建物であったのか察することができないのが残念な点です。


* 遯岩書院の意義と評価

光山金氏は連山地域で代々暮らし、多くの人材を輩出してきた湖西(ホソ)地方の名門士族の一族です。
このような理由から遯岩書院は西人-老論系を代表する書院で、1871年書院毀撤令の際にも潰されず残され、今日に至っています。特に金長生が他界した後、弟子や文人らが作った遯岩書院冊版などさまざまな資料が残されています。
このように遯岩書院は、湖西(ホソ)地方(現在の忠清道)をはじめ畿湖(キホ)地域(現在の京畿道・黄海道南部・忠清南道北部)で尊崇される書院として、金長生を祀る書院の中で最も重みがあり影響力のある書院として知られています。
現在に至るまで良い状態で保存・管理がされ、地元の歴史を研究する郷土史料としても保存的価値が高い書院となっています。
加えて、湖西地方の人々の動向を研究する上で素晴らしい史料でもあり、また当時の実力者・金長生の影響力を知ることができるのもこの遯岩書院です。

* 所有 - 光山金氏宗中

百済香(백제향)

百済香(백제향)

15.8 Km    5588     2021-07-28

忠清南道 扶余郡 扶余邑 泗沘路30番キル17

忠清南道扶余郡扶余邑に位置する百済香は、蓮の花パンと伝統茶を販売しているカフェです。
宮南池へと向かう道にあり、このカフェを代表するメニューでもある扶余蓮の花パンは百済文化を象徴する蓮の花の形をしています。形だけが蓮の花であるだけではなく、無農薬栽培された蓮の花と葉を煮出した汁に蓮の葉の粉末ともち米粉、小麦粉を混ぜて作られています。蓮の花の香りが感じられるように、蓮の葉が開く前の午前8時に摘んで、冷凍保管したものを使用しています。この他に、蓮の葉シェイク、蓮の葉クッキーなど、蓮の葉で作った様々なデザートを味わうことができます。

扶余 定林寺址 五層石塔[ユネスコ世界遺産(文化遺産)](부여 정림사지 오층석탑 [유네스코 세계유산])

扶余 定林寺址 五層石塔[ユネスコ世界遺産(文化遺産)](부여 정림사지 오층석탑 [유네스코 세계유산])

16.1 Km    26975     2021-09-04

忠清南道 扶余郡 扶余邑 定林路83
+82-41-830-2880

「扶余(プヨ)定林寺(チョニムサ)」は6世紀の中頃に建てられ、百済が滅亡する時まで栄えていた寺です。境内には、定林寺址五層石塔が1400余年の月日を越え、素朴な美しさを大切に保っています。この定林寺址五層石塔は、益山の弥勒寺址石塔と共に百済の石塔様式を見せてくれる大切な遺物となっています。定林寺址で見ることができるもう一つの遺物は、高麗時代の定林寺址石仏坐像です。この仏像は高麗時代に定林寺を改築した際に、新しく造られたものです。坐台の上部分には蓮の花が刻まれており、また下の部分には蓮の花の模様が刻まれています。芸術性に非常に優れた作品と言えるでしょう。
また定林寺址前にある定林寺址博物館は、仏教文化館、定林寺址館、企画展示館があり、仏教と定林寺の歴史を紹介しています。

百済の家(백제의집)

百済の家(백제의집)

16.3 Km    2991     2021-06-30

忠清南道 扶余郡 扶余邑 聖王路248

「百済の家(ペクチェエチプ)」は、長芋と蓮を主な材料とする韓国伝統料理の専門店です。代表的な精進料理として知られている蓮の葉ご飯は、鉄分とビタミンを多く含んでおり、滋養強壮料理としても知られています。体に良い数種類の薬味などをもち米に入れて、心を込めて包み蒸し上げた蓮葉飯は天下一品で、郷土料理に指定されています。

益山弥勒寺址 [ユネスコ世界遺産(文化遺産)](익산 미륵사지 [유네스코 세계문화유산])

益山弥勒寺址 [ユネスコ世界遺産(文化遺産)](익산 미륵사지 [유네스코 세계문화유산])

16.4 Km    21731     2024-04-07

チョンブク特別自治道 益山市 金馬面 弥勒寺址路362

百済最大の伽藍、弥勒寺址

百済最大の寺院である弥勒寺(ミルクサ)創建については「三国遺事」に詳しく記録されています。新羅の善花(ソノァ)王女と婚姻し、王になった武王(ムワン 百済第30代王 600~641)が善花王女とともに龍華山(ヨンファサン 現在の弥勒山)の獅子寺(サジャサ)の知命法師を訪ねて行く途中のことでした。突然、池の中から弥勒三尊が現れ、これを機に弥勒寺を創建することになったのです。三尊のために殿(金堂)、塔、廊(花郎) を建てたとされています。これとは別に弥勒寺の創建には武王と善花王女の信仰だけではなく政治的な目的があったとの見解もあります。つまり、百済の国力を拡張させるため馬韓勢力の中心であったこの場所、金馬に弥勒寺を建てたと推測されています。

百済最大の寺院である弥勒寺を建てるにあたり、当時の百済の建築・工芸など各種文化の最高水準が発揮されていることばかりでなく、新羅の真平王が百工(職人)を送ったと三国遺事に記録されています。これは当時、三国の技術が終結されたことを意味します。弥勒寺が百済仏教で弥勒信仰の求心点があったことははっきりしていて、新羅最大の寺院である皇龍寺が華岩思想の求心点であったことと対比されます。皇龍寺が一塔三金堂式で、弥勒寺は三塔三金堂式の寺院配置です。皇龍寺は王を頂点にした華岩思想、弥勒寺は弥勒思想を寺院に具現化しています。

国立益山博物館(국립익산박물관)

国立益山博物館(국립익산박물관)

16.5 Km    9547     2024-04-07

チョンブク特別自治道 益山市 金馬面 弥勒寺址路 362

「国立益山(イクサン)博物館」は三国時代最大の仏教寺院だった弥勒寺址(史跡)の西南に位置しています。弥勒寺址は1980年から1996年にわたって発掘が行われました。その発掘により収集された三国時代から朝鮮時代に至る約19,000点の文化遺産を保存・展示するため1997年全羅北道都立展示館として開館しました。2009年1月には弥勒寺址石塔(国宝)の解体補修過程で約1,100点の舍利荘厳具が出土しました。2015年7月には弥勒寺址がユネスコ世界文化遺産に登録されました。弥勒寺址と益山の歴史的価値を改めて見直す目的で2015年12月には国立弥勒寺址遺物展示館と名称を変更、続いて2019年2月には益山博物館と名称を変更しました。
歴史文化室と建築文化室では弥勒寺創建や変遷過程を物語るさまざまな所蔵品が展示されています。歴史文化室では舍利荘厳具をはじめ、仏教工芸品や時代別に寺院での暮らしぶりが分かる展示を行っています。建築文化室では百済最後の都があった泗沘(サビ/現在の扶余)の時代から朝鮮時代までの瓦など建築部材を展示しています。

扶余市場(5、10日)/白馬江タルバム夜市(부여장(5, 10일)/백마강달밤야시장)

扶余市場(5、10日)/白馬江タルバム夜市(부여장(5, 10일)/백마강달밤야시장)

16.6 Km    16665     2024-05-31

チュンチョンナム道プヨ郡プヨ邑ソンワンロ173ボンギル12

全体面積9,693㎡に常設市場が入っており、伝統的に5日市が開かれます(毎月5日、10日、15日、20日、25日、30日 または31日(最終日))。主に穀物類、雑貨類、果物、牛市場、海産物などを扱っており、1日の利用客は2000人ほどです。また金曜日・土曜日の午後6時から11時まで扶余市場広場で白馬江(ペンマガン)タルバム(月夜)夜市が開かれます。大きな扶余市場の建物が北東西を屏風のように囲み、その内側のゆったりとした広場に公演ステージ、フード売場とテーブルが設置されます。白馬江タルバム夜市ではビーフステーキ、天然ウナギ焼き、タコ串、羊肉串、トルティーヤピザ、手作りにんにく粗挽きカルビ焼き、ホタルイカなどバラエティに富んだメニューが楽しめます。

扶余ハヌルナルギ(부여하늘날기)

扶余ハヌルナルギ(부여하늘날기)

16.6 Km    0     2024-05-30

チュンチョンナム道プヨ郡プヨ邑ソンワンロ173ボンギル12

熱気球の搭乗体験ができる扶余(プヨ)ハヌルナルギでは、係留フライトだけでなく、韓国で唯一、フリーフライトが体験できます。扶余は山が低く、高層ビルがないため、熱気球飛行に最適です。熱気球で白馬江上空を7、8キロメートル飛行しながら、扶余郡や錦江を眺めることができます。

落花岩(낙화암)

落花岩(낙화암)

16.6 Km    18531     2022-05-11

忠清南道 扶余郡 扶余邑 聖王路247-9

扶余の白馬江を見下ろすように高くそびえたっている岩の絶壁が落花岩(ナックァアム)です。落花岩は百済が新羅と唐の連合軍に陥落した時、百済の三千宮女がまるで一片の葉のように白馬江の下に身を投げたという伝説で有名な場所です。落花岩は、この伝説のように女性の貞節を命よりも大切にしていた女性達の精神がにじみ出ている場所です。この岩石の上に1929年、この地域の郡守だった洪漢杓が百花亭という東屋を建てました。絶壁の下には「落花岩」という文字が刻まれていますが、これは朝鮮時代の偉大な学者だった宋時烈先生が書いたものです。