16.2Km 2021-07-02
全羅南道 長城郡 黄龍面 洪吉童路388-10
美食家が最も食べたがる料理のひとつにキジ料理があります。キジ料理はとてもおいしいのですが、材料が手に入りにくく調理も難しいため、簡単には味わうことができません。洪吉童生誕の地、全羅南道長城郡の入り口にある「サンゴルチャギ」の主人キム・ビョングクさん、ウンヒさん夫妻は、開業以来、最高級肉といわれるキジ肉の真の味を見つけるために努力を重ねてきました。その結果、キジしゃぶしゃぶ(クォンシャブシャブ)が誕生しました。飼育しているキジを捕まえ、その骨からダシをとったスープで味わうキジしゃぶしゃぶ。この味を知った人のクチコミで、キジしゃぶしゃぶは長城の新しい名所として有名になりました。キジ肉の肉汁が染み込んだスープに、手打ち麺やもち米を入れて雑炊にすれば、また違う味を味わうこともできます。また、キジのダシ汁でゆでた冷麺とそばは、夏限定の珍味。お店の横でキジを育てているため、食事中や食後に鳥の姿を見ることができ、子ども達にも人気があります。
16.3Km 2023-02-15
クァンジュ広域市プッ区ファンビョクタンギル10
堂号は霊川子・申潜(シン・ジャム)がつけたもので、碧澗堂(ピョッカンダン)とも呼ばれたと高敬命(コ・ギョンミョン)の『遺書石録』に書かれています。建物は正面3間、側面2間の八作屋根(入母屋造り)です。中央の2間を部屋にして前面と右側は木造りの床という変更形。元々は伝統的な楼亭様式だったものが、後代の増築により現在の形に変わったものと考えられます。ここには尤庵・宋時烈(ソン・シヨル)が書いた題額と、石川・林億齢(イム・オクリョン)と趙子以(チョ・ジャイ)の詩が扁額でかかっています。環碧堂(ファンビョクタン)についての詩は鄭澈(チョン・チョル)が書いたものが2編がありますが、それらは『松江続集』と『光州牧誌』に載っています。鄭澈の4代孫に当たる鄭守環(チョン・スファン)が金允悌(キム・ユンジェ)の子孫から買い入れ、現在は延日鄭氏家門が管理しています。
沙村・金允悌について
金允悌(1501~1572)の本籍は光山で、忠孝里(チュンヒョリ)で生まれました。1528年進士となり、1532年文科に及第して官職につきました。その後、羅州牧使など13の邑治の地方官を歴任し、官職を離れた後は故郷に帰って環碧堂を建て、後学養成に力を入れました。彼の弟子の中で代表的な人物として鄭徹や金成遠(キム・ソンウォン)などがいます。
16.5Km 2024-09-20
全羅南道 潭陽郡 鳳山面 俛仰亭路 382-11
全羅南道記念物に指定されているあずまや「俛仰亭」は全羅南道潭陽郡、鳳山面斎月里斎峯山のふもとに位置しています。1533年に宗純が建てたもので、李滉(イファン)をはじめ多くの学者や文人が学問について討論した場所です。
16.5Km 2021-08-18
全羅南道 潭陽郡 歌辞文学面 歌辞文学路877
「韓国歌辞(カサ)文学館」は肥沃な平野と美しい自然、そして数多くの文化遺産を保存・伝承してきた由緒深い故郷、全羅南道潭陽にあります。
朝鮮時代、学問が主流を成していた時代に国文(韓国語)で詩を制作しましたが、その中でも「歌辞文学」が大きく発展し、花を咲かせました。チョン・チョル以外にも7人の作家などの18編の歌辞が伝承されており、潭陽を歌辞文学の産地と呼んでいます。
潭陽郡ではこのような歌辞文学に関する文化遺産の伝承・保全と現代的な継承・発展のために歌辞文学館を建立しました。本館と付帯施設からなる歌辞文学館は、歌辞文学の資料をはじめ、ソン・スンの『傘仰集』やチョン・チョルの『松江集』など貴重な遺物や図書が展示されています。付帯施設には物産品展示場や伝統茶屋があります。
周辺の名所には「息影亭」や「瀟灑園」などがあり、歌辞文学創作の土台となっています。
16.8Km 2024-11-05
クァンジュ広域市プク区タマンピョンムギル77
ピョンチョン陶芸工房は無等山粉青沙器の「脈」とともに体験学習空間と伝統陶磁器の継承発展、伝統と現代陶磁器など多様なコンテンツを調和させ、粉青沙器の現代化をひとつの商品として発展させています。無等山粉青沙器の「脈」と精神を継ぐために、無等山粉青沙器を再現することでその「脈」と精神を取り戻し、消えつつある伝統陶磁器を体験学習プログラムを通じてひとつの文化コンテンツに発展させ、多様な体験の場を提供しています。また、伝統陶磁器の無骨さのなかにある華やかさと現代陶磁器の洗練されたデザインを融合させ、現代と伝統が調和する商品を生産するために努力しています。
17.0Km 2025-06-16
クァンジュ広域市プク区ピョンチョンギル15
+82-62-266-2287
「坪村村(ピョンチョンマウル)」は、無等山の北側麓に位置するトンリム、タマン、ウソン、タムェという4つの自然村で形成されたこぢんまりした静かな農村です。草の生い茂る野原があるなど自然豊かな村で、自然にやさしいウロンイサル(タニシ米/タニシ農法で栽培する無農薬の米)を栽培しています。また、村の中心を流れる楓岩川では、都心では見ることのできないホタルや無等山の象徴種である天然記念物のカワウソが生息しているなど、すばらしい自然生態系を維持しています。朝鮮時代には、粉青沙器が作られていた場所で、全羅南道の芸術魂を持つ地域でもあり、現在は村にある坪村陶芸工房が、その伝統を受け継いでいます。村には、食堂「ムドルキルシムト」や「ホタル民宿」などがあり、ここを訪れる人々や無等山探訪客の休息の場となっています。
17.1Km 2023-01-04
全羅南道 潭陽郡 歌辞文学面 瀟灑園キル17
+82-61-381-0115
「瀟灑園(ソセウォン)」は韓国の伝統様式が息づく朝鮮時代の代表的な民間庭園。梁山甫が恩師である趙光祖の死を期に出世を捨てて造った庭園で、静かな竹林の中に「安貧楽道」の風流を楽しんだ先人の情緒があふれるところです。清くすがすがしい庭園という意味の「瀟灑園」という通り、ここを訪れると静かで落ち着いた気持ちになれます。
敷地を流れる小川を中心にした左右の丘に桃の木をはじめとする多様な草木を植え、塀の下には清らかな渓流が岩の上を流れるように造られており、また渓流の上には丸木橋が架けられています。水車からながれる水の流れなども自然と人工との調和が見事で、美しい山水の姿をそのまま庭園に移したような景色となっています。
17.7Km 2021-02-15
光州広域市 東区 龍淵洞 山354-1
柱状節理は溶岩が冷めた時、収縮してできる節理で断面の形態が五角形または六角形の柱の形のことをいいます。無等山柱状節理は約7000万年前に形成されたもので瑞石台、立石台、圭峯が代表的です。立石台、圭峯は風化が進んだ柱の形をしていますが、瑞石台は風化がそれほど進んでおらず、屏風の形をしています。山すそにある小石の坂道はこのような石柱が崩れて堆積したものです。立っている岩や小石の坂道は岩石の形成と風化過程を見ることのできる珍しい自然遺跡で、天然記念物に指定されました。
時代:先史時代
数量/面積:107,800平方メートル(指定区域)
17.9Km 2021-04-30
全羅南道 羅州市 金川面 栄山路5838
羅州(ナジュ)の梨は1430年に世宗実録地理志羅州木片に羅州地方の特産物として上納する土貢物として記録されており、すばらしい品質を誇り、昔から多くの農家が梨を栽培してきました。「羅州梨博物館」は羅州の梨を広く広報し、栽培の歴史や民俗資料などを収集・保存・展示して後世に生きた教育の場として活用するために1992年4月20日に開館した梨専門博物館です。
18.3Km 2021-04-16
全羅南道 潭陽郡 昌平面 トルダムキル 56-24
+82-2-383-3807
全羅南道潭陽(タミャン)郡昌平(チャンピョン)は農村地帯でトマト、イチゴ、ハウス栽培の野菜など近郊農業が盛んな所で、素晴らしい自然環境がいまもなお残りつつ、田園都市など今後の発展への潜在力を持つ、人情にもあふれ住みやすい美しいところです。
昌平(チャンピョン)という地名は高麗時代初期まで遡ることができ、これまで文武百官を輩出したソンビ(学者)の村として忠・孝・礼・信義を守り続けてきた村としてその名声を博しています。壬辰倭乱(日本で言う文禄・慶長の役)の時の義兵隊長だった霽峰・高敬明(コ・ギョンミョン)先生の次男・鶴峰・高因厚(コ・インフ)先生の11代子孫である大韓帝国末期の義兵隊長・鹿川・高光洵(コ・グァンスン)義兵隊長が生まれた義を重んじる村で、近現代に入って1906年4月1日私立長興学校を創設・開校し、新学問を教育した春崗・高鼎柱(コ・ジョンジュ)先生、国務総理や国会副議長、中央省庁のトップである長官、大法院(最高裁)判事、マスコミ界の重鎮・高在旭(コ・ジェウク)、初の工学博士・李升基(イ・スンギ)博士、初の女性農学博士・金三純(キム・サムスン)博士の故郷でもあります。
朝鮮時代に王への献上品として有名であった昌平米飴や韓菓、千年の神秘をとどめる竹塩、竹塩味噌、伝統トッカルビなどは韓国伝統の食べ物として昌平が誇るものです。
歴史
三韓時代 - 拘溪国
百済時代 - 屈支県
新羅時代 – 757(景德王16)年祈陽県
高麗時代 – 940(太祖23)年昌平県(別名として鳴平[ミョンピョン])。 1144(仁宗21)年、中央指定官として県令を置く。
朝鮮時代 –
1474(成宗5)年-昌平県を撤廃し光州牧に隷属させる形となったものの、金有山(キム・ユサン)が王に訴え 再び1479年昌平県となる。
1758(英祖34)年閔百禄(ミン・ペンノク)が昌平県誌を編纂し、1793年(正祖17)年昌平県令である趙光存(チョ・グァンジョン)が現在の古西面古邑里から昌平面昌平里82番地(昌平面事務所)に移る。
1895(高宗32)年5月26日南原府昌平郡(4等郡守)となる。
1896(高宗33)年8月24日全羅南道昌平郡として9つの面を管轄。
日帝強占期 – 1910年国権侵奪時代 - 昌平郡
1914年2月28日、部令第11号(1913年12月29日公布)により昌平郡が潭陽郡に編入され、昌平面に改称
※ 昌平という地名は孔子の出生地・魯の昌平郷とその地形などが似ていることから命名されたという説があります。
1990年4月1日付で南面外東里が昌平面に編入