愛妓峰(金浦)(애기봉(김포)) - エリア情報 - 韓国旅行情報

愛妓峰(金浦)(애기봉(김포))

13.5 Km    29962     2022-12-29

京畿道 金浦市 霞城面 平和公園路139

金浦の地の果て「愛妓峰(エギボン)」は民間人統制区域にあり、韓国戦争(朝鮮戦争)当時、南北が激しい戦闘を行ったといわれる154高地です。出入規制があるため、入山には身分証が必要です。愛妓峰の頂上からは、北韓(北朝鮮)の村や松嶽山が一望できます。
愛妓峰には、丙子胡乱の時に平壌監司とその愛妾である愛妓との悲しい恋物語が伝えられています。愛妓峰という名前は、丙子胡乱で連れ去られた平壌監司を、山の頂上で偲び、絵を描きながら死んだ妓生愛妓の無念が渦巻いていることから名付けられました。そして、1968年に愛妓峰を訪れた故・朴正煕大統領が、愛妓の無念、そして家族や故郷を失い故郷に帰れない民の無念を想い、「愛妓峰」と書き残しました。そのためでしょうか、毎年秋夕の時になると、家族や故郷を置いてきた離郷の人々がここ望拝壇を訪れ、先祖を祭って統一を祈ります。
民族の無念と統一祈願が宿る愛妓峰は、近年の漢江河口の歴史や文化の学習の場として脚光を浴びるようになりました。400キロメートルを流れて西海(塩河(ヨムハ))に出会うという祖江(漢江の河口の名称)は、400キロメートルを流れてきた漢江の水が淡水としての生を終え、老いたという意味と、おじいさんのように安らかな川を意味しています。実際、愛妓峰から眺める祖江は、とても安らかな姿を見せてくれています。また、北韓を流れる臨津江や遠く礼成江、川と海が一緒になった塩河江、まん中にぽつんと浮かぶ渡り鳥の生息地、留島まで、漢江河口の歴史と文化が詰まっており、祖江の満潮に合わせてソウルに上がる船の黄色い帆柱の姿が目に浮かぶようです。


出入りの手続きについて
1)車のみ検問所の出入り可能(徒歩、自転車等は不可)
2)代表者1名が出入申告所で申込書1部を作成、身分証を持参して検問所確認後、出入り可
3)外国人訪問時(適性国家の国民は除外)パスポート持参

朝陽紡織(조양방직)

朝陽紡織(조양방직)

13.5 Km    1433     2023-11-07

インチョン広域市カンファ郡カンファ邑ヒャンナムギル5ボンギル12

1933年韓国資本として設立された江華(カンファ)初の人絹(レーヨン)工場・朝陽紡織。時代が過ぎ、江華の織物産業は衰退し、廃墟と化してしまいました。廃屋同然となったこの建物を現在の持ち主が買い入れ、改修工事を行ない、巨大なカフェに生まれ変わらせたのが、現在の朝陽紡織カフェです。
崩れる寸前の壁は素晴らしい美術館や映画館に変身し、巨大な作業台は珈琲テーブルに作り替えました。紡織機も工場労働者もいなくなったスペースには中国や欧州からかき集めた骨董品で埋めつくされています。割れたガラス窓がそのままの英国製ドア、チェコの昔の汽車についていた丸型のミラー、冬になると活躍するたい焼き機が元々ここにずっとあったかのように置かれています。
990平方メートル、およそ300坪超の工場跡や建物の骨格そのものを活かした朝陽紡織カフェには、永い歳月の名残があらゆるところにみられます。

江華干潟およびクロツラヘラサギ繁殖地(강화갯벌 및 저어새번식지)

江華干潟およびクロツラヘラサギ繁殖地(강화갯벌 및 저어새번식지)

13.5 Km    29269     2021-06-16

仁川広域市 江華郡 華道面 如此里

江華郡華道面にある「長花里干潟(チャンファリケッポル)」は鳥類生態系の宝庫として有名な干潟で、美しい夕日が見られることでも知られています。

江華干潟およびクロツラヘラサギ繁殖地
約370平方キロメートル、汝矣島の52.7倍で単一文化財指定区域としては最大です。江華南部地域と席毛島、乶音島など、周辺の島に大規模な干潟があり、これらは渡り鳥の移動経路上にあります。そのため、渡り鳥が移動中に餌を食べ、休息を取る場所となっており、これを保護するため、天然記念物に指定されています。

江華文化財夜行(강화문화재야행 고려의 밤을 품다)

江華文化財夜行(강화문화재야행 고려의 밤을 품다)

13.5 Km    484     2021-09-15

仁川広域市 江華郡 江華邑 官庁里 405
+82-32-930-3569

文化財を背景に繰り広げられる幻想的なオンラインメディアファサード、文化解説士と江華の街を一緒に歩きながら伝え聞く歴史物語や観光ガイドと一緒に自転車に乗って旅立つ江華文化観光ツアーなどが楽しめます。

瀟灑園カンジャンケジャン金浦本店(소쇄원간장게장 김포본점)

13.6 Km    25260     2024-02-16

キョンギ道キンポ市ハソン面クンポロ1915ボンギル53
031-983-8801

瀟灑園(ソスェウォン)カンジャンケジャン金浦(キンポ)本店は、韓屋で食事ができるカンジャンケジャンの専門店です。カンジャンケジャンとは、様々な野菜と醤油を煮て冷ました後、生きたカニを漬け込んだ韓国料理のことをいいます。カンジャンケジャン定食のほか、牛カルビの蒸し物定食も人気メニューです。定食はメイン料理とテンジャンチゲ、釜飯、おかずが一緒に提供されます。

大韓聖公会 江華聖堂(대한성공회 강화성당)

大韓聖公会 江華聖堂(대한성공회 강화성당)

13.6 Km    32280     2021-08-02

仁川広域市 江華郡 江華邑 官庁キル 27番キル 10

江華(カンファ)聖堂はコ・ヨハン(Charies Jone Corfe)初代主教により1900年に建立されたもので、聖ペトロとパウロ聖堂と命名されました。当時の建築工事は宮廷棟梁が率い、以後数回補修が行われましたが、現在も当初の姿そのままで保存されています。聖堂の建物は正方形(正面4間、側面10間)の重層構造で全体的な建築様式は韓国伝統様式に従っており、配置や内部構造は西洋式バシリカ建築様式を応用しながら調和と美しさ、土着精神を表しています。聖公会江華聖堂は当初1981年に京畿道地方有形文化財111号に指定されたのち、江華郡が仁川広域市に編入されたため仁川地方有形文化財に変更され、2001年1月に国家史跡424号に変更、指定されました。

江華石水門(강화 석수문)

江華石水門(강화 석수문)

13.6 Km    24098     2020-02-06

仁川広域市 江華郡 江華邑 菊花里
+82-32-930-4571

「江華石水門(カンファソクスムン)」は江華邑の中心部を流れる東洛川に設けられた江華山城の2つの水門のうちのひとつ(上水門)です。1709年~1711年に江華山城を造る際に設置されました。花崗岩造りで3つの虹模様をした虹霓門(アーチ型門)で、長さ18.2メートル、高さ2.7メートル、アーチの高さ1.7メートル、幅3メートルです。1910年まで甲串里東洛川河口の橋として使われていましたが、1977年には下水門の場所に移築、1993年には東洛川覆蓋工事のため元の上水門の場所に移転復元、最近になって西門に移され現在に至ります。

[事後免税店] ハイマート・コムダン(検丹)店(하이마트 검단점)

[事後免税店] ハイマート・コムダン(検丹)店(하이마트 검단점)

13.7 Km    0     2024-04-30

インチョン広域市ソ区ソゴッロ778

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緑青瓷博物館(녹청자박물관)

緑青瓷博物館(녹청자박물관)

13.8 Km    31015     2020-04-17

仁川広域市 西区 陶窯址路 54
+82-32-560-2932

旧景西洞(キョンソドン)事務所を改築し2002年10月25日に緑青瓷陶窯址資料館を開館しました。国家史跡第211号景西洞緑青瓷陶窯址に関する学術資料の提供および陶磁器体験教室の運営を行っている緑青瓷陶窯址資料館は1965年と1966年に4回にわたる発掘調査を行いました。
この陶窯址で焼かれた瓷器は、精選された青瓷系の薄い胎土(陶磁器の生地の土)の上に調質の緑褐色の釉薬を塗り焼いた緑青瓷器(青磁器)です。景西洞緑青瓷陶窯址は1970年5月、史跡第211号の文化財に指定され、地元では初めての文化財となりました。
緑青瓷が生まれた年代については、諸説がありますが、新羅時代末期から高麗時代初期(9世紀から10世紀)ごろ、比較的品質に優れた日暈底青瓷が発達し地方の豪族など富裕階層に普及・広がりを見せる一方、緑青瓷器は高麗時代前期から朝鮮時代後期まで庶民の器として作られたものと見られます。
陶窯址の構造や様式を見ると、丘陵地に西南方向に向かって作られた窯床の長さは7.3m、幅1.05m、焚口の幅1.2mであまり目にすることがない小規模の窯跡です。 窯の傾斜度は22度ほどの単室窯ですが、この窯址で注目されるのは緩やかに傾斜する窯床の表面に土で作った円形のトジミ(ケットク)と呼ばれる焼台を配置している特殊な様式です。 この焼台の形はあたかも馬のひづめのようなの形をしており、前の部分は分厚く、後ろの部分は薄く低めに作られています。登り窯のように傾斜した窯の床の上に焼台の分厚い部分を窯の傾斜の下の方に向けて置くと、器が窯の中で傾かず水平を維持することができます。
このような構造様式の陶窯は日本では独自のものであると自負してきましたが、このような陶窯址が日本のみならず二か所で発見されたため、ここ仁川・景西洞緑青瓷陶窯址の発掘は、今後の研究如何によっては陶窯技術の日本への流出経路を明らかにする貴重な資料となると思われます。

・増築: 2002年9月 27日

高麗宮趾(고려궁지)

高麗宮趾(고려궁지)

13.8 Km    39913     2021-06-01

仁川広域市 江華郡 江華邑 北門キル 42

「高麗宮趾(コリョグンジ)」は高麗が39年もの間、蒙古の侵略に粘り強く抗戦した宮闕の跡です。1232年高麗高宗は、江華島に都を移し、その2年後の1234年に宮闕と官衙の建物を完成させました。1270年に蒙古と和解をし開城に都を戻した後、宮闕と城廓は崩壞しました。
1637年、江華山城が清軍に陥落したため、高麗宮の跡地には朝鮮宮殿の建物などがあったが、1866年丙寅洋擾の時フランス軍に敗退し建物のほとんどが消失し、今は東軒と吏房庁だけが残っています。ここは1977年に補修が行われ、民族の自主精神と国難克服の歴史的教訓を実現する国民教育の場として活用されています。